あの夏へ

 ”あの夏へ”は宮崎アニメ「千と千尋の神隠し」の中の一曲です。外国人に大人気のこの映画の英語名は”Spirit awey”ですがTo remove without anyone's noticingともいい、「生きて行く意味」「生きることの大切さ」「命とは」を考えながら、「親が子供を育てること」の質の低下を以前から嘆いていた宮崎監督が、思春期前の子供であろうと、親から自立してこの世界を生き抜かなければならないことを、映画を通して伝えたかったのです。湯屋「油屋」で掃除をしたり、お風呂の準備をしたり、ただただ働くだけ。湯婆婆という魔女から名前を取り上げられた彼女は、湯屋で働くことで”千”という名前を獲得しますが、名前とは自分を自分たらしめるアイデンティティであり、それは労働によってでしか得られないのです。「労働の大切さ」それが生き甲斐となり、人生の幸福につながる。

 もう一つ、「言葉の力が軽んじられている現代において、『言葉は意志であり、自分であり、力である』ことがテーマであり、カオナシという自我を持たないキャラクターはアイデンティティーレスであり、言葉が大きな意味を持つこの世界で、ただ一人だけ自分で言葉を発せない、即ち自分の意志を持たない存在だったカオナシが、労働によって居場所を発見する物語でもある。」千尋がカオナシと乗る電車の中は、我々が住む現代の世界と同じように茫漠とした世界で、行きっぱなしの電車というのは流れのようなもの、この流れとは時流の流れ、または物理的なときの流れを表し、黒く半透明な体をした顔のない乗客たちがいて、カオナシと似た特徴があり、透き通った体を持つその姿はもちろん、彼らも言葉を話さないのです。そして行きっぱなしの電車に乗っているということは、彼らは自分のもといた場所には戻れないということ、そしてまた彼らは自分の行き先を自分で決められない、また流れに身を任せるしかできない存在でもあるでしょう。乗客たちもカオナシと同じように自我を持たない存在として描かれています。

 電車の窓からは空や海が続く、この世のものではないような美しい景色が見えました。この世界にも綺麗な所はある。厳しい事ばかりで一人でなんとか必死にやっていかなければいけない世界の中にも、こんなにも美しい景色がある。辛い事ばかりの毎日の中にも必ず良いことがある。成長した千尋が真実を見抜く力を手に入れたのは、自分が誰なのかを忘れなかったから、自分の名前を忘れなかったから。私は誰だろう。私の名前は何だろう。山と積まれた食べ物を貪り食う千尋の親たちは豚にされてしまい捉えられる、彼らを救うため千尋は一生懸命働き、自分が生きていく上で一番大事な真実を見つけます。

 

 あの夏へ。二月に東京ドームで行われたアイスショーでこの曲が流れた時、知っているのにその題名も何に使われた曲かも思い出せず、白いガウンのようなコスチュームでひらひら舞う羽生選手を見ていたのですが、また再びショーで滑っている姿を見ることができ、今あの夏へという言葉がどんな意味を持つものか考えています。千尋の夏。私の夏。みんなの夏。少し遠くの中学校に電車で通っていた私は、時々歩いて帰る時があり、セーラー服を着て高砂橋を歩きながら、夏の入道雲と青い空と川面をずっと見ていました。川に囲まれた町は私の故郷であり、いつも戻るべきところだった。68回夏を過ごしてきた私にとって、”あの夏”とは川の上の大きな入道雲であり、橋を渡りながら歩いて居た私の、純粋な生きることへの渇望の象徴だった。何を求めているのか、何をしていけばいいのか、何かを表したい、その手段がわからない、そこから私の長い長い模索が始まるのです。行きっぱなしの電車に乗る恐怖と違和感のため、私はどうしてもみんなと同じように進むことができなかった、何よりもそこで生きて行く意味が解らなかった、だけれど何がしたかったのか、何が自分の芯であり真なのかどうしてもわからなかった。何が大事なものなのか、何があったかい世界なのか、何よりも自分という感覚は何なのか、私は何で存在しているのか。芥川や太宰を読みふけり、一致点をさがすその行為が一番生きがいがあり、あの夏、それを探して雲を見ていました。

 ひたすら自分の心を見つめ、五十年がたち、今私はエアビーのゲスト達からIKUYOと呼ばれるものになりました。私は着物と繋がり、柴又のお寺と繋がり、日本の文化の一端と繋がっています。それらがゲスト達にとってどんな意味を持つものになったのかはわかりません。でも今私は名前を持ち、差し出す大切なものがあることが嬉しい。苦しい時に支えになるほんの一瞬の記憶があるということの有難さを、羽生選手の”あの夏”から感じています。