カミングアウト

  昨日は水曜日で柴又も混んでいないだろうし、ゲストは三人、なかなかサイズを教えるメールをくれないアメリカのカップルとプエルトリコの女の子なのでそんなに大変じゃないと思っていたら、朝方予約が入り、日付を見ると今日でした。あれあれ大変だと思って支度を追加しましたが、一時前に到着したのは黒い小花模様のワンピースを着た小柄な黒髪のブラジルの女医さんで、明るく親しみやすい方なのだけれど、それにしてもお国から何時間かけてここまで来たのか聞くと気が遠くなる数字だし、話の中にアマゾン川とか出てくると、私はワニやピラニアを連想してしまう、でも香水はシャネルNo.5を付けていました。ピンクの花の咲き乱れる小紋に桜の金茶の袋帯を選び、帯揚げに悩んでいるところに夫が登場、あとを任せて次に来たプエルトリコ生まれで今はバルセロナに住むロイヤーのライザの着物を選びました。ふっくらして陽気なライザはブルーの着物に金茶の袋帯で、バストがあるのでウェストにタオルを入れたのだけれど、くぼみをなくして締めればいいというものでもなく、本人もわかっていてずっと私が一緒にいるかどうか聞いていました。

 外国人の着付けは難しいし、身長や体重を聞いても選ぶ着物は小さかったり大きかったり、上手くいかないものです。ラストに来たアメリカのカップルは24歳と23歳、金髪の背の高い男の子は映画関係の勉強をしていてなかなか面白く、でもファーストネームがどうしても覚えられず、ちょっとニコラス・ケイジに似ているのでニコラスと呼ぶことにして紬の単衣を着たのだけれど、日本人のような顔立ちのフィリピンの女の子は私サイズの米寿のお祝いに作った渋いブルーの三つ紋を選んでしまい、帯も渋く、何でこれを選ぶかわからないのです。隣家の花が綺麗に咲き乱れているので、許可を得てそこで写真撮影をし、それから柴又へ向かいましたが、目立つのか通りすがりの御婦人たちに声を掛けられつつ、混んでない柴又を楽しみ、佃煮やお団子や漬物を買って酒盛りすべくうちへ帰りました。初対面でもすぐ仲良くなったブラジルさんとプエルトリコさんはたくさん写真を撮り合い笑いさんざめいていますが、意外と若い二人は盛り上がらず、仏教彫刻も興味がなくて、すぐ腕を組みぴったり寄り添っている割には密度がない気がして、こうなると私はもう正面切って「何を求めてこの体験を選んだのか」と聞くと、「コミュニケーションを求めてきた」と答えが返ってきました。

 彼女とくっついている割には心が一致していないカップルだと感じるケースはこれまで何回かあったのだけれど、アメリカ人の若い男の子シェーンがアジアの女の子と旅行していてうちに来た時のはじめは恥じらっていたけれど最後になついてきて、帰り際私は「シェーン、カムバック!」と言いつつ別れたのでした。今回のニコラス君はどこか縛られている感があって、特に彼女が着ているものが米寿のための着物だったせいもあり、ツーショットを撮っても、彼女一人の写真を撮っても、その着物がジャストフィットしていると思えない違和感が最後まで残りました。この前来たスリランカの夫婦はオーストラリアで仕事をしているけれど自分の国の事を考えていた、今日のブラジルとプエルトリコの二人もしっかり自分のアイデンティティを持っているのに、このフィリピンの女の子には自分の色がない、影がない気がして、着物体験をしたいのだったらこのタイプはよそのレンタル着物経験の方がいいんではないかと思いつつ、彼女にリクエストのイナゴの佃煮、ブラジルさんの好きなきくらげの佃煮をつまみに酒盛りを始めたら、ニコラス君は結構みんなと話してなかなか席をたちません。最後にお茶を点てていると、とても厳粛な動作だとブラジルさんが動画を撮り始め、初めてのお茶を味わって、最後にニコラス君にお茶を点ててもらいながら、抹茶の香りや柄杓でお湯を茶碗に入れる時の音など、五感すべてを楽しむものだと説明したのだけれど、多分フィリピンのガールフレンドはそれを理解しないだろうなと感じていました。

 柴又からの帰り道、時々LGBTQのカップルの話をするのですが、初めは衝撃的だったけれど、自分を認め正直に生きるということが他人のことも許容でき、自己が確立できる、何が大切かわかるのであれば、カミングアウトはとても大事な行為だと思うのです。セクシュアリティに限らず、公表すること、人に知られたくない事を告白することという意味もあるのであれば、自分の内面の事を掘り下げて公にした東京ドームでの羽生選手のアイスショーは衝撃的だったし、自分の心の闇を明らかにしてそこから進まないとこれからの時代はかなり厳しいものになるとおもうのです。「手と頭と心が歩調をそろえていると、奥深い所で眠っていたものが目を覚ましたが、それを目覚めさせたのは遊びでもなければ夢でもなかった。それは人間に対する敬意であり、迫りくる危険であり、そして知恵だった。心の闇に打ち勝つにはどうしたらいいか。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか拒否するかだ。私で出来ること、正しいことを正しくやり続けないと、美しいものが残らない。」

 900人近い外国人にうちの着物を着せてきました。身長体重のリミットを超え、もうだめかと思ったこともあった、どうにもならないこともあった、でも最高のものを羽織らせ、夫が写真を撮るのを垣間見て、私はああ美しい、着物が喜んでいる、頑張っている、ゲストの顔と着物がマッチして、なんてきれいなんだろうと思い、ほっとするのだけれど、今回はダメでした。可愛い女の子なのに、着せた時言葉がなかった、思いが無かった。戦争で夫を亡くし、和裁一筋で娘さんを育てお弟子さんたちと88歳のお祝いをするときに作った紋付きのくすんだブルーの訪問着は私はまだ着たことがない、まだ着ることができないのです。娘さんを先に亡くし、認知症になって施設でなくなったおばあちゃまの遺骨はずっと空き家にあって、あの3・11の日、たまたまそこにいた私はおばあちゃまと凄い揺れの地震を味わった。

 その思いの詰まった着物を、あっけらかんと選んで着て、彼氏と腕を組んで写真を撮る彼女に綺麗ねと言えない私。

 

 実はこの時点でパソコンが動かなくなり、すぐ修理の方がいらしてくれたのですが、5年たっているし一週間入院して直すとのことでしばらくスマホだけの生活をしておりました。ゲストが来たあとすぐブログを書かないと忘れてしまうことが多く、ここまでの経緯も4月13日の今日戻ってきたパソコンを開いて読んで見て、ああそうだったと思い出すのです。そしてこのあと三日間連続してゲストが来て、その間に近所の方から女の子の人形を4つ頂いたり、夫の友人のお母様が着付け教室のハクビの先生を30年していらして、亡くなった後膨大な数の着物の行き場所を探している最中で、うちにもたくさん運んで下さったり、色んな出来事がありました。

 人も物も自分の本当の居場所を探し続けているのかもしれないけれど、なかなかそれが見つからずにさまよっている気がするのですが、ここではないところでそれが見つかるのかもしれず、その入口さえわかれば行き来が出来て安定するのでしょう。自分の事をわかるためにカミングアウトするには、相当の覚悟が要るけれど、これからのゲストを迎えるために一番必要なことなのだと感じています。