一人旅

 宮崎監督の「君たちはどう生きるか」がアカデミー賞を取った時、プロデューサーの鈴木敏夫さんがこれは宮崎さんの黙示録であり、だからその感覚がわかるアメリカで受け入れられたのではないかというコメントをしていました。日本ではこの映画は賛否両論だったし、解からない人が多いのも納得できる話です。

 護岸工事が終わった家の近くの中川には、最近たくさんの野鳥が飛んで来て、エサを探している姿を見かけます。この地に生まれ小学校の課外授業で川のスケッチをした時も、野鳥など見かけることが無かったし、実母の介護でいくつかの橋を渡って施設に通った時も、コロナ禍でひたすら歩いてスーパー巡りをしていた時も、川には鳥はいなかったのです。

 アップにして撮った写真を野鳥好きの友人に送って問い合わせたら、「アオサギ」だと教えてくれ、ああこれは宮崎監督の映画の鳥だとわかったとき、私は深い気持ちになりました。アメリカで上映された時の題名は「The Boy and the Heron」で、アオサギの存在は大きいのです。この中川に降り立ったアオサギは一体何を意味するものなのか。

 黙示録とはギリシャ語で「覆いを外すこと」「打ち明けること」を意味し、壊滅的な状況やこの世の終末などを示す際にも使われるそうです。世界は壊滅的な情況に陥っていて、大国のトップは自国を守るためなら核兵器を使うことも辞さないと宣言している今、私達がしなければならないことは自分の心を深く見つめ、抉り出し、その中に人を救える、先の見えない真っ暗闇の中で指針となり支えとなる光を見出し、その存在を提示することだと考えています。時間はそんなに残されていない。このアオサギはそれを教えに来て居るのです。

 「世界は膨れ上がっている。予測もつかない大破裂がいつ生じるのか。今、私達が生きるこの社会全体が息を止めてその瞬間を待っているかのようだ。君たちはどう生きるか。それは自分はどう生きるかであり、何を持って観客に向かい合うかである。人生の危機にあって、見たくないものを見据え、跳躍しなければならない。この作品は、楽しく心あたたまる肌触りを求めない。悪感、夢魔、血まみれの世界に耐える勇気こそ描かれなければならない。ものを作る立場として、まだ見もしない世界がそこにある。空想の世界を妄想し、構築するというのはとても孤独な作業だ。孤独であるということを愛することができなければ、空想の世界を作ることはできない。今までの作品よりはるかに遠い所へ、ようやく私たちはスタートの地に立つのだ。」宮崎監督の企画書の文章です。私も子供たちも、そして私のところに来てくれた沢山のゲスト達も、今これからがスタートだと思っています。破れるもの、滅びるものは落ちていく、容赦ない世界が始まっています。

 「今の自分に足りないものをたくさん吸収して、自分が表現したいイメージをちゃんと伝えられる技術とボキャブラリーを増やさなきゃいけないと思っている。時代に左右されないようなものは、多分自分が表現したいものをどんどん突き詰めて行った芯の部分に、絶対あると思っているので、そこがブレない限りは大丈夫なのかなと思っています。時代はめぐっているけれど、すべてが消えるわけじゃない、怖がらずに残していくことの方が大切。そこを削らないことで、その時にそこであった、なまものとしての感じが表現できる。ああ、もう、これを残したから大丈夫と思いたい。普通に暮らせるということが、当たり前なことではない。いつ世界が終ってしまっても、これをやらなかったな、って、後悔はしないような生き方。いつかは終わるんだったら、今できることの最善を全部尽くしていこうと思っています。」 

 年齢に関係なく、己を律しつつ孤独を見据え、その上で前に進もうとしている人々の強い視線と、川の中に佇むアオサギの孤高の姿を、じっと見ています。