書けなかった時間

 今年から確定申告を送るのに、帳簿への記帳や保存が義務付けられ、会計ソフトを購入して一月から経理事務と格闘していました。初期は知り合いの税理士さんに頼んでいたのですが、私の仕事は特殊なのでひどく手間がかかるし、青色申告にしたので手数料もかなり高額になるから自分でやりなさいと言われ、借方貸方勘定などよくわからない世界の中をずっと彷徨っていました。コロナ以後久しぶりにゲストがたくさんきていて、帳簿を付けながら、難しい訳アリのゲストが続いていたなと感慨にふけっています。ただ着物を着せて、ロケーションの良い場所で写真を撮るというコンセプトではない私の体験ですが、それがいいか悪いかは全くわかりません。ゲストが望んでいるものとかけ離れてしまい、落胆されたこともありました。だけれど、思いもかけなかったような変貌を遂げるゲストもいるのです。

 オーストラリアの家族が予約してきました。パパとママ、そして9歳と7歳の女の子2人、びっくりしたのが、姉妹の身長がほぼ同じだったことです。どうして?と思いながら七五三用の着物を着せていると、おしゃまで活発な妹さんと比べてお姉ちゃんが無表情で話す内容が予測できず、戸惑っているとすぐママが来てフォローします。ママは陽気でふっくらしていて、菊の花の模様の紺の訪問着がよく似合い、髪の毛もアバウトにまとめてたらして、四人着付けると素晴らしい着物姿になりました。草履は多分お姉ちゃんは嫌がるだろうと思って私はズックを持ち、案の定違和感を持って駅で履き替えた彼女と、嬉々として跳ね回る妹さんを見ながら、この4人家族の着物姿が宗教画のように思えてきました。通りすがりの方々が、彼らの姿に目を奪われ、次々と賞賛の声を掛けてきます。背の高いパパ、金髪のニコニコしたママ、ちょっと照れくさそうな妹さんの中で、全く無表情でズックを履いて黄色い着物を着たお姉ちゃんのオーラは際立っているのです。この子は何を見ているのだろう。何を考えているのだろう。

 多分普通の学校ではなくで何かのサポートを受けながら勉強している気がするのだけれど、興味のあるマンガ番組にはのめり込むとママが言っていて、お寺の庭の池のコイや亀には反応を示さなかったのが、壁一面に彫られた仏教の彫刻版をじっと見ている姿を私はたまたま動画に撮っていて、それを今も時々見返しています。静謐な視線の強さは子供のものではない。でも彼女はこの視線を持ってずっと過ごしていくのでしょう。パパは時々悲し気な目をするのだけれど、ママは明るくすべてを楽しんでいます。

 帰って来てお菓子を食べている女の子たちのそばで、私はパパとママのためにティーセレモニーをして抹茶を飲んでもらっていると、ふとお姉ちゃんと目が合いました。この子はお茶が点てられると私は直感し、彼女にそばに来てもらって作法を教えると、よどみなくすらすらとお茶を点ててくれました。後ろで自分もやりたくて跳ね回っている妹さんは、あとでやってみたけれどうまく出来なかった、それが普通でしょう。

 帰る時は後ろを振り向かず、静かに前を向いて歩いていくこの子の姿を見送りながら、私のやっていることは何なのだろうと思っていました。彼女が受け入れるもの、興味のあるもの、嬉しいと思えるものは何だろう、あとで、ママから来たレビューに「これは子供たちの心に一生残るであろう体験でした。そしてどれだけ多くの人達が、私達を見て喜んでくれた事でしょう」とありました。一年前のことを振り返って見ている今、心の中に何かを抱えているゲストほど、その姿はより美しく、周りの人々に色々なインパクトを与え、何よりも私がより深くそのことを覚えていて、忘れられない体験となっていることを強く思います。苦しんだり悲しむ経験はしたくない、避けて通れれば有難い、他人の不幸は蜜の味と平然と言い切る年配者の言葉に背筋が凍る思いがしたのですが、辛い経験をしているからこそ見える別の景色があるということ、透徹した視線の向こう側に、慈悲や温かさが存在している気がします。そしてそれを支えるものは、私が差し出せるものは、日本の文化なのです。着物も仏教彫刻も茶道も、みんなあの子にとって初めてのものなのに、すっと受け入れられる器の深さを持ったあの子を、私はずっと忘れません。