激しい雨

 連休中はずっといい天気だったのに、今日は強い雨が降っています。直前に予約してきた南米出身の御夫婦は、傘を差さずずぶぬれで駆け込んできました。タオルで二人の体を拭きながら、旦那様の精悍な浅黒い顔を見ていて、この雨の中彼は決してこの体験に来たいわけではなかったと感じていました。奥様の是非というリクエストなのでしょう。頑張って訪問着を着せて、正装で写真を撮り、ティーセレモニーをして、今度は浴衣に着替えまた写真を撮り、振袖も打掛風にして羽織ってもらい、最後にプレゼントをして彼らは帰りましたが、柴又へ行くことはできず、不完全燃焼のような体験になってしまいました。うちの夫もそうだけれど、趣味嗜好が違うと映画でも演劇でも互いに相手が好きなものが認められないことは多々あります。私の体験は奥様が選んだもので、まして激しい雨の中遠くの町まで来ることは決して旦那様の本意ではなかったのでしょう。

 こういうことはどういう商売にでもあることだし、いちいち気にしていたら身が持ちません。一年遅れでブログを書き直している私にとって、あまり芳しくない記憶は残さないでもいいものだと思うのだけれど、彼女が乗り気でない旦那さんを説得してわざわざ私の体験を選択してくれた気持ちや、旦那さんにとってあまり意味がなく面白くない日本の文化だったとしても、奥さんが選択したこの体験を失敗したと思ったとしても、その時には意味がなかったと思えてもいつか振り返った時に意味があったんだと思えるように、その後の体験を創ることに全力を尽くしたいと考えたいからです。

 コロナ以後、こころの方向を見つけようとしてる若い人たちは、どう進んで行けばいいのか、大学で勉強してもそれが本当に自分の本意なのかと考えながら、私のところへ来ていました。自分が日本に来た意味をはっきりさせることはできたのか、そんなに突き詰めて考えることではないかもしれないけれど、文学とか美術とかスポーツとかあらゆるジャンルを超えた、今切実に求められている個人個人のエートスは、自分のやり方で考え抜いて、そして進んで行くことでしか得られないと思うのです。

 私のこれまでの選択は、失敗だらけだったのかもしれないけれど、失敗しても訳が分からずまた失敗しに行く、何を求めているのか、それがどんなに独りよがりのものだったか、それでもそれを繰り返して、それでもあきらめずに何度も挑んでみるけれど、夢はかなうわけではなく、努力は実るわけではありませんでした。期待される夢も、期待されない夢も、誰にも伝わらない気持ちも、誰にも届かない日々も、ただ同じように過ぎ去っていく日々も、ただ苦しみを味わい続ける日々もありました。

 人間の人生は、沢山の選択の連続です。その選択が全て正解だったかどうか、最後までわかりません。どんなに悩んで考えたとしても、選択肢には、するかしないかしかないし、その二択の積み重ねで選ばれてきた今が正解なのか、不正解なのか、神さまにしかわかりません。ただ、そのすべての選択に意味は持たせなければならない。自分のやりたい事とやらなければならない事の選択に悩むとき、そんな時役に立つのが、傍から見ると何をやって来たかと思われるような日々の積み重ねで、無意味だったり無駄だと思われるような過去の努力が意味を持つことがあるのです。選択の是非は、”失敗してもまた失敗しに行く”という究極の腹のくくり方をしていかないとわからない、わからなくてもいい。今を選ぶ難しさ、でもその時々の意味だけは考え続けなければならないし、それが一番の救いになるのでしょう。

 結局、奥様はレビューは書かなかった。それが彼女の選択でした。翌日行くと言っていた観光地の日光が、二人の心に深く刻まれたと私は思っています。