穏やかなルーマニアのゲスト達2023年5月10日

 東欧の国の中で、うちはルーマニアのゲストがなぜか多く、今までに13人来ています。コロナ前にルーマニアで会社を経営しているゲストが来て、ドラキュラで有名な国だと言って笑ったことと、お寺で従業員のためにお守りをたくさん買い、ジャケットのポケットに小銭をジャラジャラ入れていたのが印象に残っています。お寺の彫刻版の「常不軽菩薩受難の図」の前で一人の僧が三人の男に棒で殴りかかられているのを見ながら不快そうになぜこんなことをするのかと問いかけられ、私は答えることが出来なくて、情けない思いをしました。常不軽菩薩は誰とあってもひたすら「私はあなたを敬います」と言って合掌するので、多くの人は自分が馬鹿にされたと思い不快感を抱き怒り悪意を持って罵ったのです。法華経を読誦することもなく、また瞑想することもなく、ただ人々に合掌礼拝することを修業としていて、心清らかにただひたすらに相手を信じ、迫害を受けてもその人を信じ続けるという人間礼拝だというのですが、これを説明するのは難しいし、何より自分自身が納得していなければ、相手に、まして外国人に説明するのは不可能です。

 今回ルーマニアから来たカップルは婚約中で、ふっくらした穏やかで老成した感のある彼女とちょっと学生っぽい彼氏は、淡々と寄り添い、静かにお寺の庭園や彫刻を見て楽しんでいました。いろいろなタイプのゲストが来るのだけれど、外国人が求めているのは日本という小さな国のちいさなお寺の歴史や謂れではなく、そこに住む私たちのエートスやスピリットがどうやって育まれてきたのか、宗教や参道のお店のグッズがどういう意味を持ち、人々の心の支えになっているのかをもう一度見直して、提示することだと思うのです。ダルマのモデルである達磨大師は、考えて考えて考え抜いて悟りを開いた。長いこと座りっぱなしで、足も手も融けてしまったその体が、不屈の魂を持つ象徴として日本中のお店で売られ、人々は願いを込めながら達磨の片目を黒く塗るのです。自分がわかったということがすべてだ、それが悟りだとわかった、仏陀の本を読んでいた時、出てきた衝撃的な言葉でした。個人個人の思惟、苦闘、開眼、結局人一人の思いの深さしかないのだとしたら、私は4時間ゲストと一緒にいてこの寺町を歩くことが仏教そのものだということを感じてほしいのだと思っています。

 もう一組のゲストは3歳の女の子をお母さんに預けて、年下の旦那様と一緒に日本旅行を楽しんでいる華やかなタイプのヨガインストラクターの奥様でした。京都のひで也工房の百花繚乱の浴衣を着て、庭園の欄干に腰かけ、陽の光を浴びながら微笑む姿を写真に撮る旦那様を見ながら、私は幸せな気持ちでいました。穏やかで静かで、温かい一日でした。