義母のこと 夢を読む 2024年2月19日

実母が亡くなった時、初めて湯灌の儀というものを目の当たりにしていたく感動したこともあり、義母の葬儀も同じ葬儀社に依頼しました。11日に亡くなり葬儀は21日で10日間空いてしまうため、どのくらいお顔が変わってしまうか心配しながら、昨日義母の着物類や施設から届いたご両親の写真を持って葬儀社に行き、納棺の儀式に臨みました。

玄関で受付の方に出席は何人ですか?と聞かれ、一人だと答えると大仰に驚かれたのですが、実母の時も一人で行ったし、一緒に看護も介護もしてくれない姉や弟嫁たちを見ていると、なぜ私たちが義母の弟妹や施設のスタッフの方に「本当に良く尽くしている」と感謝される訳もわかるような気がします。部屋に入ると白い布団の上に義母が寝かされていて、若い男女の湯灌師の方が丁寧な説明と共に手足を拭き、爪を切り、丁寧にお化粧をしてから死に装束を順番に一緒に付けて行きました。手甲、脚絆、白足袋を付け、道中はかなり長いのでほどけないように縦のかた結びにして長く余ったひもはハサミで切り、旅に必要な荷物を入れるための首にかける小物入れの頭陀袋には、三途の川を渡る時の船賃の六文銭を入れ、笠に三角頭巾、それに浄土への旅は長いので、杖を入れ、草鞋を足元において、旅支度は整いました。布団の上での最後のお別れをさせてもらうためにスタッフの方は席をはずし、私は冷たくなっている義母と二人きりになりました。

最後に一緒にいたいのは私ではない、それは百も承知です。母の時と同じように冷たくなった頭を撫で、額にほほを寄せ、しばらくじっとしていました。私は義母を決して「お母さん」とは呼べなかった、終生「おばあちゃん」で通しました。26歳でお嫁にきて、十年後に同居、それから四十年近く一緒に過ごし、あまりのストレスに私は病気になり入院したし、後年義母は心臓病で、義父は胆管癌で闘病生活を送りました。いろいろなことがありすぎて、愛憎も激しすぎて、苦しんだ方が多かったのはお互いなのでしょう。だけれど、だけれど、最後にここに私がいるということは何かの意味があるのです。私は村上春樹の小説を思い出し、額を付けながら、撫でながら、義母の頭の中の夢を読もうとしました。彼女の頭の中には生まれ育った家や両親や、国府台の女学校のことがあるのです。40歳で義父と結婚し、後妻となって三人の大きな子供たちの母となった記憶は消してしまい、嫁や孫のことも正直関係ない路傍の人だと私は今感じています。それでいい、その方がいい。これから四十九日間、浄土へ行くための長い孤独な道のりを義母は一人で、歩かなければならない。その先に待っているのは、義母の中の暗闇で、嫁ぎ先の馴染みのない墓所であり、仏壇だということが、どんなに厳しい事か、歩き通すモチベーションがあるかどうか、私にはわかりません。何も考えず、何も感じず、ただひたすら歩く、誰もいないところで自分だけを頼りに進んでいく。うちに今まで来たたくさんのゲスト達は、それぞれいろいろな背景や事情を抱えていました。おぼつかない英語で、理解できない内容に苦しみながら、私達は何とか語り合ってきました。しゃべらなくても、心を閉ざしているように見える時でも、その行為自体が何かを示している、場数を踏んでくると、心の気配に敏感になります。でもだから何ができるということではない。

今目の前に横たわる義母も同じだと思いました。生きていた時の義母ではなく、これから49日の旅に出る修行者なのです。でもまだ今は夢を見ている。若い頃の楽しい夢を見ている。幸せなことです。私は自分の命がなくなるまで、義母の新しい魂と一緒にいるのでしょう。これから来るゲスト達と時を過ごすように、義母とも新しい時を過ごします。

 

帰って来て、どっと疲れました。重いのです。荷が重い。だけれど、義母がいなくなってからすべてを変えてしまった私は、彼女をずっと背負う義務がある、今までとは同じ世界ではなく、壁を超えた別の街があり、そこで暮らすにはどのような心持で、魂でいなければならないのか。

これは私の、命題であり、それを語り合える友が世界の各地にいる。

義母と私の新しい出発なのでしょう。

 

明日は葬儀です。