なぜ人を殺してはいけないのだろうか

 夕方から放映される「相棒」をよく見ていますが、昨日は東大法学部名誉教授の古稀を祝う会に優秀な教え子たちが集い、そこで恐ろしい事件が起きて、猟銃を手に人を殺したいという欲望にかられた教授が教え子を監禁し、「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」という命題の解答を書いて、その出来が悪いものを殺すというシチュエーションを作り出すのです。教え子達は弁護士や閣僚、大学教授などそうそうたるメンバーなのだけれど、この切羽埋まった情況でこの命題について考えるということが、今の私にはとても興味深い事です。

 知識も語学力もない私だけれど、いろいろな国から沢山のゲスト達が来るというシチュエーションだけは沢山あるから、監禁されて命題を突き付けられた時の警察官僚の危機意識の持ち方がとても大事だと思えるのです。このテレビドラマが作られたころより、今現在はもっともっと危険に満ちています。なぜ人を殺してはいけないのだろうかではなく、なぜ人を殺さないのかの方が人々の心にストレートに響く。

 イスラエルとパレスチナは両者が互いに「相手は自分たちを破壊し尽くそうとしている」との恐怖に取りつかれているため、激しさを増しています。互いに相手の民族集団としての存在を終わらせたいと思うということは一体何なのでしょう。パレスチナ人は1948年のイスラエル建国で、パレスチナ国家樹立の機会を奪われ、以来何度も虐殺や追放を経験してきました。イスラエル人はパレスチナ人を追放し、ユダヤ人だけの国を作りたい、でもイスラエル人も、ナチスに約600万人のユダヤ人を虐殺されたし、欧州のユダヤ人社会はほとんど壊滅したのです。イスラエル人とパレスチナ人はそれぞれ異なる歴史を持ち、異なる環境下で暮らし、異なる脅威に直面しているのだけれど、互いに「相手が自分たちの殺害や追放を望んでいる」と思う理由があり、単なる敵ではなく常に自分の存在を危うくする脅威で、そして相手が自分の存在を消したいと思う理由がよくわかるから、その前に相手を排除しなければならないと考えるのです。「これまで自分たちをどれだけ不当に扱い、相手がいかなる脅威を見せ続けても、生まれた国で尊厳を持って暮らすという相手の権利を尊重する」と心の底から言えるようになれるか。

 外国人着付けを個人的に始めたころ、イスラエル人のゲストが続き、なぜだろうと思ったのですが、正直なところその後もJewishと名乗られると、私の気持ちは少し波立ったのでした。そしてコロナウィルスが蔓延し、海外旅行はストップして誰も来なくなり、再開して観光客で賑わうようになっても、イスラエルのゲストはあらわれません。今日はシリアの首都ダマスカスでイラン大使館がイスラエルによるとみられる空爆を受けたというニュースが入りました。台湾では大きな地震があり、建物が倒壊した映像が映し出されます。四月はあまりゲストが予約してこないから、腫れてしまった右膝を安静にして治し、いつでも逃げられるように身軽にならなければならないと思いながら、この末世をいきぬくすべ、選択の大事さ、もし間違ったとしてもそれに意味を持たせなければならないと考えるのです。

 試験問題で「なぜ人を殺してはいけないのか」と出題されたら何と答えるのか。人間の問いではなく、神しか問えない質問ではないでしょうか。人間の傲慢さに惑わされる前に、私達は自分のたった一つの今のこの人生をちゃんと生きていかなければならない。そのためにあらゆる努力をするのです。相棒のドラマのストーリーは、猟銃を持った教授は実は他人を殺すのが目的ではなく、自分が撃たれて殺されたかったという複雑な伏線がありました。

 ベニスの商人の中に出てくる金貸しのシャイロック、マクベスなどシェークスピアの文学は激しく凄まじいものが在ります。でもそんな文学を読み、感情を追体験することで、心が解放され、人間の幅が広がり、物に動じなくなり、何かを思うようになる。人間の幅や深さはそれぞれ違うけれど、それぞれが影響し合うことで何かのエネルギーが生まれ、自分の力で自分の精神を浄化して、自分の内側にこそ世界を変えるパワーがあることに気づき、どんなに頑張っても報われないことからも学び、もがき苦しむ生き様もさらけ出して、今度は風のように違う人生を歩もうと努力していくことを、1600年代にシェークスピアは示していたのです。

 NINAGAWAマクベスのBDの広告が新聞に出ていました。日本人の演じるシェークスピアはどうあるべきかと模索していた蜷川幸雄は、実家の仏壇に手を合わせ、父親の位牌に話しかけ、ろうそくを灯すうちに考えが駆け巡ってきて、仏壇の中にそっくり物語が入っていたら、日本人は先祖の物語としてシェークスピアを受入れてくれるのではないかと考えついたと書いてありました。舞台に作られた大きな仏壇を、背を丸めた二人の老婆が開ける、桜吹雪や赤い月といった強烈な視覚効果に読経の声を重ね、フォーレのレクイエムが流れる、三人の魔女は歌舞伎の女形、激闘するのは日本の武者というエモーショナルなマクベス。初期の野外劇だったマクベスに俳優の松重豊さんは雑兵として出演していて、マクベスに切られて早々と死に、草むらに横たわっているとフォーレのレクイエムが流れ、空には星空が見える、その時「ああもう死んでもいいや」と思ったそうです。カタルシス、精神の浄化、もう一つの人生を生きて見よう、違う自分になるんだ、風のようになるんだ。こういう追体験をいかにしてきたか否かが、人間をつくっていく。ちがう自分になれる。優れた音楽や文学や、舞台やパフォーマンスは、だから有益なのです。生きていくために、今は特に必要です。限りなく考え、自分の中から生み出すものを磨き続けること。

 義母の戒名を初めて見た時、私はとても感動しました。曹洞宗のお経をきちんと把握し、葬儀の儀式、四十九日までの綿密な供養をこなし、義母と共に毎日修行に励んでいた日々の中で、毎日目にする位牌の戒名は、まるで詩のように見えてきたのです。仏教とはそれぞれが自分の中で紡ぎ出していく悟りであり、物語であるとしたら、戒名は最後の詩だった、私はうちの仏壇の中にあるすべてのお位牌の意味はご先祖様の姿であるといつも思っていました。それぞれのラブロマンス、それは永遠に仏壇の中にある。日本の文化とはなんと素晴らしいものなのでしょう。

 「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」そういう問いかけが突然突き付けられた時、自分の中に文学なり音楽なり哲学なり何らかの優れた感情や感動の追体験があり、本当の生きる意味を見出だそうと努力している表現や姿を見て心を動かされる土壌があるものは、その問いに対して穏やかに応えることが出来る、それは教養であり文化であると私は思うのです。「なぜ人を殺さないのか」と命題が変化しても気がつかない精神の鈍麻さは、やがては自分の命を滅ぼし、それを悼む人すらいなくなるという事実が、シェークスピアの文学には綴られているのです。