バースデイストーリーズ

 

 しばらくぶりに、昨年の記憶に戻ります。暑い8月に五反田のアウトレットに行く途中に雨に降られて、ツタヤで雨宿りをしながら本棚を見ています。

 中古本があふれんばかりに並べられているのを見ても、結局春樹さんを買ってしまうのだから、どれだけ好きなのかと思うけれど、彼の考え方や思考は、私の心の拠り所です。最近はたくさんの外国人と接触する機会が多いので、翻訳本も、この地名は聞いたことがあるとか、考え方や感じ方、生活の仕方など知りたくて、真剣に読むのですが、雨宿りの短い時間に読めそうな、ラストの春樹さんの短編「バースデイガールズ」を選んで見ました。冷房の効いた明るいコーヒーショップで、春樹さんの小説を読み、時々外に目をやって雨がまだ止まないか確認しながら美味しいアイスコーヒーを飲んでいると、心がとても穏やかで幸せなことに気がつきました。

 私は今、晩年にいるのか最晩年にいるのかわからないけれど、そうなると焦りも欲も無くなり、本当に大事なものを見せてくれる指針を大事にしながら、自分の持っているものを、外国のゲスト達に差し出す努力をしていけばいい、すべてが有難く、幸せに満ちている気がするのです。

 金沢大学に留学しているレナちゃんの友達の若い男の子が一緒に着物体験に来て、ひで也工房の黒い浴衣を着て柴又に行く電車の中で、好きな作家はヘルマンヘッセで「荒野の狼」が好きと言い、私は「車輪の下」だと答えて、二人とも暗い資質なんだと思いながら、日本語の堪能な若いドイツの男の子とヘッセの話ができることに驚き、私が年を取ってきてやっとわかった禅の「十牛図」の本をいつか読むように勧めました。彼は両親が離婚していて、トルコ人と再婚したお母さんは彼にとっての異父弟を生み、ドイツではあまりうまくいっていないようで、だから日本で勉強しているのかもしれません。

「荒野の狼」の主人公は真面目に、あまりにも真面目にこの世界や自分の存在について考え続け、狼のように街の中を彷徨い、救いも見いだせずに生き続けていて、すべてにおいて真面目に考えていると、その人間の行きつく先は最終的に「自殺」に到達するだろうということなのです。しかし、この世界は果たして真面目にとるべき世界なのだろうか。人生は「真面目に」考えてわかるものなのだろうか、それでこの世界や人生をわかったことになるのだろうか。この世界や自己を「まじめに」取り続けているうちは、おそらく彼に人間らしい人生はやってこないだろう。

 ヘッセは常に自己の中で相反する二つの自分を抱え、何をするにもそれを肯定する自分と、それを否定する「荒野の狼」が同時に一つの体の中に住まわっていて、互いがいがみ合っているというのです。本当は自己というものは、その二つだけでなく、もっとたくさんの姿があるのに、その二つしかないと思い込んで50年間にわたって生き続けてきた。精神的なものに通じる世界、ゲーテやモーツァルトや哲学、言語などの学者の世界を愛する一方で、ごく当たり前の日常生活にも憧れている。市民生活にごくありふれている「ユーモア」は、自分を肯定するか否定するかという二つで出来ているわけではない。真面目に時間をかければ、この世界の真理にいずれ到達し、そこにたどり着けさえすればいいと考えることの浅はかさを笑ったのではないか。そもそも人間の人生なんて大した時間ではないのだ、それをまじめにとればわかるようになるなんて思うのはばかげている。それよりも、そのただひとつの冗談を言うために苦労なさい、こんな馬鹿げた世界なんて平気で笑ってやりなさい、真面目にとっているだけでは生きられない世界で、笑って生きること。それがユーモアなのだって言っているように思えるのです。

自分の世界は自分と荒野の狼しかいない、自分を肯定するものと否定するものしかないと思い込みながら生きてきたのを、自分の過去の世界を打ち壊してもう一度世の中の物事を見ようという主題のこの本を、21歳のドイツの男の子は自分の心の支えにしている。なんて真面目なんだろう、ドイツ人らしいなあと思いながら、かつて私もそうだった、だから今まで悩んで迷って生きてきました。

 禅の十牛図に救われたのは、なすべきことを終えて老年に入ると、すべてのことがリセットされて、皆また同じスタートラインに立つということ、それからは自我も欲も名誉もなく、あっけらかんと俗性の中で酒を飲み、笑いながら何も考えず、明るく楽しく生きて行けばいい、ということがわかったからでした。世界中から訪れてくるゲストに綺麗な着物を着せ、文化を味わってもらいながら内面的な話をし、最後には明るく笑って別れる、そして私は色々忘れてしまうけれど、また次のゲストを迎えていくのです。

 

村上春樹の「バースデイ ガール」という小説は、レストランでウェイトレスのアルバイトをしている20才の女の子が、自分の誕生日もそこで働いていて、オーナーの老人の部屋に料理を運んで行った時に、誕生日プレゼントとしてなんでも願い事をかなえてあげると言われるのです。「美しくなりたいとか、賢くなりたいとか、お金持ちになりたいとかなんでもいい」と言われたけれど、長いこと考えて彼女が口にした願い事を聞いて、その意外さに老人は驚くのです。でもそれがなんであったかは最後まで明かされません。

ずっと後でその話を聞いた人が、その願い事はかなったかと彼女に尋ねたのですが、「それはイエスでもあり、ノーでもある。人生はまだ先が長そうだし、物事の成り行きを最後まで見届けた訳じゃないから」

そして「人間というのは、何を選んだところで、何処までいったところで、自分以外にはなれないものなのねっていうこと。」

私もドイツの彼も、もし20才の誕生日に一つ願い事をかなえてあげると言ったら、何を頼むのでしょう。

ハチャメチャだった私の二十歳、それから五十年たちました。

私の今の願い。空を飛ぶように、息をするように、すべてを愛おしんで生きて行きたいのです。

君たちはどう生きるか。またこの命題に戻ります。コロナウィルスが蔓延し、異常気象が続き、殺し合いの紛争は収まる気配を見せません。自分の命がどうなるか、それもわからない時代に、何を願うのでしょう。

自分であり続けることに、努力すること。自分の器を広げ、そして磨いて、進化し続けること。楽しく暮らすこと。

 

 私のところに来るゲストは、いろいろなギフトを置いて行ってくれます。私はそれを見て、気持ちを感じて、相手を想います。暑い中、明日明後日と連続でゲストが来ます。精一杯の努力ができますように。私の力が続きますように。それが今の願いです。