ヴァン・ゴー

 二階のリビングには、前の電器屋さんから毎年いただくパナソニックの名画カレンダーがかけてあります。月が替わって、ルノアールの絵だった8月のカレンダーをめくったら、9月はゴッホの「黄色い家」でした。朝のテレビ体操をしながらその絵を眺めていて、今までうちに来たゲストのうち何人もがゴッホが好きだと言っていたことを考えていました。同性婚のチャイニーズアメリカンの旦那さんは、ゴッホの「星月夜」の絵を腕にTatooしていて、びっくりしたのだけれど、外国人はゴッホのことを「ヴァン・ゴー」というと彼は教えてくれました。

 私もゴッホが好きで、彼が弟のテオに宛てて書いた書簡集を若い頃図書館から借りて熟読し、抜き書きしていました。でもある時好きな画家はゴッホだと言ったら「若いねえ」と馬鹿にしたように言われたことがあり、年を重ねてMOMA展でエドワード・ホッパーの絵を見てからひどく惹かれて、最近はゲストに聞かれた時は彼の名前をあげています。知らないという人もいるし、ひどく興奮される時もありましたが、最近はワルシャワ大学の数学の教授がブリューゲルと言っていたのが心に残り、絵画も自分のアイデンティティとなるのだなと感じています。

 お寺の仏教彫刻を見ながら、途中で好きな画家を聞くのですが、あまり考えたことがないタイプはひどく悩んで、でも各国の若手の画家のことは私にはわからないし、結局自分が知っている事しか心に留まらない、でもそれでいいのかとも思うのです。クリムト、ダリ、と言われると「ああ、そうか」と相手の感性を感じるけれど、一番すごかったのが「加山又造」と日本語で答えた中国系の大柄な女の子で、スマホで見せてくれた彼女の作品は精緻で輝かしく、将来は美術大学で教えたいという具体的な目標があり、シャイで不愛想なタイプのこの子の頭の中には才能が渦巻いているのがわかったのです。

 きっかけとめぐり逢いと、自分の抱えている根っこみたいなものが一致する時、人は前へ進めるのだと思う、日本文化、海外の文化は、隠れたところにそっと存在していて、自分で見つける人もいれば、そこへ行く道筋を一緒に辿っていくと、私自身が新しい感覚に目覚めることもあるのです。直前の予約が入らなければ、久しぶりに一週間休みです。かかとが痛いので、昨日はゴロゴロしてユーチューブやサイトを見ていて、際限なく入ってくる情報やユーチューバーの生活の覗き見に一日費やしてしまって、それでもその場限りの快楽は得られる、だけれど次の瞬間に前の動画の事を忘れてしまいます。

 フィンランドのゲストが来たので、久しぶりに村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み返してみました。フィンランドが重要なキーワードとなる、十年前に書かれたこの小説を読んだ時は、あまりインパクトが無くて彼の小説にしては薄味で淡々としていて、主人公の心情がよくわからないと思っていました。でもコロナ禍を経て、そしてエアビーのゲスト達と接触して海外の状況が少し想像できるようになった今、春樹さんの引き出しの中にあったものは限りなく普遍的な意味合いを持ち、危機的な世界情勢の中で思考回路を混乱させているもろもろの邪悪さから逃れ出て、一歩前に進むことを思い出させてくれることに気がつきました。

 そして、もしかしたらこれを読み返している今はもうこれからは存在しないかもしれない、自分の命も、思惟も、すべてが異空間で漂っている感覚が強くなっています。本を読んで、絵画を見て受ける感覚は一期一会であるならば、それを今消化して自分の中に入れて、これから来るであろうゲストとの邂逅につなげていかなくてはならない。ゴッホの様々な絵が彼のどういう意志のもとに描かれたものか、どんな息遣いだったか、何を表現したかったのか。

 同性婚のチャイニーズアメリカンの旦那さんの腕に彫り込まれた「星月夜」の四角い絵画。それを支えに、それを根っこに、彼は少し年上の黒人の奥様を愛し続けています。

 「誰のために書くのか、どのように書くのか、そしてなぜ小説を書き続けるのか」

 春樹さんの言葉です。現在進行形で、様々な優れた人々が、自分の力だけで進んでいくこの時代、無駄に生きることはできないのです。