生きていることの矜持 11月12日

 土曜日のゲストは男性二人、恰幅のいいマルコと、くるんと髭にワックスを付けてカールさせたネストールは40代で、一緒に暮らす仲の良いカップルです。30分早くビールの缶を片手に現れた二人は、高砂駅向こうの松寿司で食事して日本酒飲んでから来たとのこと、日本に昨日着いたのでまだ疲れと時差が残っています。メキシコ人でカリフォルニアに住む二人は初めての日本文化にわくわくしていると言い、マルコには義父の紬のアンサンブルを着せ、小柄なネストールには喪服を男物に仕立て直した黒紋付を眠狂四郎のように着てもらい、二階で鎧や掛軸の前で写真を撮ってから柴又へ向かいました。

 

 何処から見てもカッコイイ!話好きで温和な彼らは、柴又の庭園も彫刻コーナーもすべてに興味津々でした。でも疲れも見えて来て、酒好きのマルコがビールが飲みたいというので蕎麦屋さんへ入り、酒と魚がダメなネストールはオレンジジュースを飲み、ゆっくり会話していて感じたのは、彼らの醸し出す雰囲気の穏やかさでした。外国人と英語で話しているという感覚ではなく、彼らの言葉がストレートに心に響くのはなぜなのだろう。ネストールのエアビーのプロフィールに「私は夫と世界中を旅するのが大好きだったけれど、コロナウィルスのため出かけられない時はつらかった」とあって、私はネストールは女性だと思っていた時に、メールで二人の男性の身長と体重と年齢が送られてきたのです。

 

最近はペルーのマチュピチュへ行ったそうで、山のてっぺんでネストールがカウボーイハットをかぶり茶色いサングラスをかけて座って空を見ている写真を見せてくれ、それを撮っているのがマルコで、なんだか異質の愛情と感情が入り混じって、清々しく純粋な気持ちになりました。夫婦や親子や兄弟や親戚でもない男性二人の愛情というのは、同じ方向を見て同じ空気を吸ってそれで嬉しいというスピリットだけなのかもしれないけれど、最近の私はそれを感じるとることができる、私の仕事はゲストから与えられる何かなのだと改めて思った一日でした。

私のところにはるばるやって来るゲスト達は、ひとつ突き抜けた感覚なり、感性を持っています。初対面の外国人との4時間で、私は彼らに与えられることを必死で探します。何を求めているのか、どんな感性なのか、何を喜ぶのか。昨日来たハネムーンカップルは三十代で、京都へ行って華やかなレンタル着物を着ているし、京都の美しい風景を写した写メを見せてもらった時、これではうちの体験はかなわないとまず思ってしまいました。どうしよう、何をどう持って行けばいいのか、一緒に来た24歳の従妹のリクエストで一緒にやってきたのですが、静かで温和な金髪の小柄なアメリカ人の旦那様と、ベトナム生まれの割と地味目な奥様のカップルに、初めからちょっと違和感を私は持ってしまったのです。正直京都のカラフルな振袖は彼女には似合っていなかったと私は思いながら、初めての着物体験の大柄で若いミシェルは濃紺の菊の訪問着を選び、顔が丸いからと髪もアップにしないでダウンで花やかんざしを付け、にこにこ笑いながらあちこちでセルフィ―を取っているのに少し安心して、ハネムーンカップルの着付けにかかりました。京都では白地の羽織を着ていた旦那様には、もう品質で勝負するかないと義父の最高級の紬のアンサンブルを着せ、奥様はピンクの花柄の訪問着に袋帯、髪は自分でダウンに結って花を付けました。京都では勿論美容師さんに髪を結ってもらっただろうなと思いながら、でも自分もプロにアップにしてもらうと意外と気に入らないこともあるしなと逃げを打ち、自分の顔は自分が良く知っているのですから、自分でやるのが一番いいと勝手に納得してしまいました。面白かったのが、今まで来たゲストの写真を何枚も見ていて、それと同じコーディネートにしようとしていることです。京都で沢山の外国人の着物姿を見た上で、うちの着物を着たゲスト達をどう思うかは、彼らの感性です。今までもいろいろなことがあったから、いつも外国人に気に入ってもらえるとは限らないことは承知しています。でも私は必死で話しながら柴又へ連れて行く途中も、どう経験を展開させようか考えます。京都の庭や風景には柴又はかなわない、天気も曇りで光があまり差さない、でも混んでいないことはメリットで、たくさん写真を撮り、彫刻エリアではじっくり話をし、旦那様もじっと見入っているのを見ながら、この寺の矜持、彫刻師たちの矜持ということを私は考えました。狭いこの地域の中で、十年間ひたすら彫り続けた彫刻師の矜持、あるインド人にこれは中国のキャラクターを模写しただけだと酷評されたけれど、中国の寺にある彫刻は、もっと劣ったもので比べられないと言ってくれた若いインドの女の子もいました。見えないような片隅にまで精巧に彫られた彫刻たちを見ながら、これは彼らの矜持そのものだ、だから今こんなにも多くの外国人たちが、日本人たちが感動するのです。矜持を持つためには、己を律し、不正をせず、すべてに純粋な愛情を持てるかが大事で、その芯を持てない不安や迷いや孤独感が、形を変えて相手を攻撃し憎しみ罵る心につながるのです。私がこの仕事をやる理由は、着物たちが持っている凛とした矜持を、柴又のお寺の彫刻たちが持っている彫刻師たちの魂の矜持を、日本の文化であると感じてもらうことでした。私は先祖の位牌を守り、仏様や神さまを毎日拝むことができ、一緒にゲスト達とお線香を灯すこともあります。私はこれが文化だと思っています。

 時間がなくてこのところティーセレモニーをしていないことが悔やまれるのだけれど、茶道の精神を解説したレジュメを読んでもらい、私がお茶を点てそれからゲストにも点ててもらうということも、文化の矜持だと思うのです。とこれはコロナ前に書いたものだと思うのだけれど、世界は危機に直面している自覚を持ち、どうしたらそこからステップアウトできるか真剣に考えなければいけない、それには幼少時から本物の文化というエートスの存在を感じて居なければならないというようなことを言っていて、それは今も変わらない事です。

人間の中の欲、貪瞋痴は、もう表面に出て来て見えるものではなく、複雑に絡み合って頭の中や無意識の層の中に埋め込まれ、老若男女を問わず人々の心も感情も食い荒らしているのでしょう。今私はすべての危険な分野から離れたところにいます。皆と同じ位置に居続けることが苦痛だったけれど、これだけ世の中が狂いだしている有様を見ていると、そこにいないことはラッキーかもしれないいと思いだしています。子供たちに言いたいのは、考えて感じて、自分の本能が指し示す方向にゆっくり進んで行けばいいということです。ゆっくり、ゆっくりと、一歩ずつ一歩ずつ。