破滅への使者

 2023年11月9日

 

二日連続してゲストが来ると、頭の中がこんがらがってしまい、まず名前が覚えられなくなります。水曜日のゲストの名前が難しく、ママの名前は最後までインプットされなかったけれど、翌日に浅草からやって来た女性二人のうちのボーイッシュな台湾のゲストは、私が彼女の名前を覚えられないので、「リューサン」でいいと言ってくれ、ほっとしました。それにしても難しいパターンで、ショートカットで背が高く細身で若い時の野村萬斎さんのようなリューサンを彼と呼ぶのか彼女と呼ぶのか迷って、相棒の綺麗なグレースに聞いたら「she」と即座に答えてくれたけれど、おしゃべりで好奇心の強いリューサンは矢継ぎ早に質問を重ね、私の日本語の言葉尻をとらえて真似するし、グレースの着付けに集中している時に話しかけられると言葉も思考も止まってしまいます。

旅行好きでフランス語を5年間勉強していたリューサンはミロとピカソが好き、美的感覚も面白く、グレースの着物選びにもこだわり、ゲストが好んで着る明るい華やかな訪問着や小紋はすべて却下し、いつもは使わない着物の棚からあれこれ出して探し、最後に選んだのがうす水色の紬の訪問着で、白で線書きの絵が入っている珍しくて高級感あふれるものだけれど、少し地味でなかなかゲストには選ばれないものです。帯もさんざん考えて、今の季節にぴったりの、黄色の銀杏の葉がちりばめられている黒ちりめんの名古屋帯にして、明るい臙脂の帯揚げに薄い銀とピンクの帯締めを使い、細身で薄い体形なので沢山紐や伊達締めを締めて(10本)着物のよく似合う着こなしの上手な日本人のようになりました。リューサンは高級なブルーの紋付きの紬に陣羽織を付け、パスポートも全部入れたきんちゃく袋にキャノンのカメラを持って柴又へ向かうと、参道のお店の方々から賞賛の声がずいぶんかけられました。去年京都だけ来たことがあり、今回は東京にだけ10日間滞在するそうですが、高砂の静かな町も柴又の参道も、帝釈天も全てが珍しく、いたるところで写真を撮りながら感動した声を上げています。

 たまに頼まれて私が撮るツーショットは多分グレースの望みの構図ではない気がして、二人で自由に動いてもらっていると、リューサンの感覚は女性のものではないことに気がつきました。私の体験の時間配分を気遣ってくれたり、買い物も早いし、店先で子供がみたらし団子を食べているのを見て「食べる―」と騒いでみたり、自由気ままなところと細心の気配りが同居していて、いろいろなことに執着せず風のように生きている感があります。

 彼らがうちに来てしばらくした時に、私が日本人らしくなく、オーバーアクションでコミュニケーションを取り、フレンドリーなのがとても珍しいと言い出しました。それはリューサンも同じで、今までのゲストはもう少し静かだったと言い返しながら、私たちは似たところがあるのかもしれないと思っていました。義父によく言われたのが、私が考えないで言葉を発すること、軽々しく行動する、言葉に重みがないなどでした。日本で暮らしていると、軽はずみに言葉を発するからヒンシュクも買うのですが、ゲストの相手をするときは自国語でないという制限があり、話したい事の半分も言えず、単語が思い出せないとそこで会話はフェイドアウトしてしまいます。でも優れた日本の伝統文化や着物たちは、私の拙い言語能力を全て飛び越し、ゲスト達に静かな感動を与えてくれるのです。

 38歳の彼らは、私の子供たちと同じような年代で、リューサンに日本では家族で集まるのは正月とどんなときか?と聞かれ、仏教や伝統的な日本の行事と答えようとしたけれど、行事を英語で言えなくて詰まってしまいました。(eventでした)リューサンは年の離れたお兄さんの三人の子供が可愛いと言っていたけれど、一人暮らしで旅とテニスが好きでどこでもコミュニケーションをとるのが早い彼は、世界を俯瞰して見ながら生きているようで、これまで来た自分のアイデンティや親や夫との愛情関係に傷ついたり悩んだり孤独を感じて居るゲスト達と違って、そんなものを超越しているというか、クリアしたところにいるのです。自分の人生の方向は選択するのではなく、他の道が消去されて、壊されて残ったところを進むことなのかもしれない、イスラエルの現状を報道するニュースは、現実なのにゲームの中の戦いのように思える、アイスショーの中でゲームが深い意味と倫理観とメッセージを持っているものと知った時、生きていくにあたっての選択肢は人生をやめない限り続いていくのだから、あの時こう選択したからこうなってしまったと嘆くのではなく、次々出てくる選択をどうクリアしていくか、それは永遠に続いていくものなのでしょう。リューサンは、寺の彫刻や庭園を楽しみながら、違う価値観の中で楽しい夢を見ている、夢を掴もうとしている。

自分が選んできた選択肢というものが人生の中にあって、その選択肢の先に一回破滅というルートがあったとして、すべての障害を乗り越えて夢、目標を掴むということが繰り返されるのなら、あなたは何を選ぶか、何を選んで何を感じるか。同性婚のゲストの事を思い出しました。もしその事実が破綻しても、元に戻る道はないし、また新た道を進む原動力になればいいけれど、本当に自分の人生って何なんだろうと思うのです。ここで選択を変えたとしても、自分は自分でしかない。

 だけれどゲームの中のシチューションのように、相手を殺すか、町を破壊するか、進むかという選択を、ゲームのようにイエスと選択して戦うことが今の現実だということ、現実であれば自分もその中にいるという感覚が私たちにはもうつかめなくなっている。自分の命を滅ぼすためのイエスを選択できなくするためにはどうするか。

 破壊する。壊す。粉々にする。何を?ケツイを持って破滅する。何を?破滅への使者というゲーム音楽が頭の中で鳴り響いています。

 

 

 明日は二人の40代の男性が来ます。気になるのが、申し込んできた男性のコメントに「私は夫と旅をするのが大好きです。」とあることで、単なるミス記入かとも思うけれど、到着して二人を見るまではわかりません。でも、同性婚の奥様の着物姿はとても美しかったし、昨日のグレースも素敵だった、カップルでも夫婦でも恋人でも友達でも親子でも叔母と姪でも、これまで来たゲスト達は楽しそうだったのです。私の“体験”を選択してくれる。その重みを私は感じて居ます。私はどういう姿勢で、態度で、気持ちで、彼らを迎えるのか、それも選択です。