再び  宙船

 膝がいまだ不調で、布団から起き上がるのに難儀しているので、おとといから二階の義母の電動ベットで寝ています。いたるところに手すりもあり、電灯もリモコンで消せるし、高齢者にとってありがたい事ばかりなことにやっと気がつき、二階でやることを増やしていたら、いつの間にか家庭内別居になってしまいました。ワイド―ショーが大好きな夫が、毎日同じ話題を繰り返すコメンテーターの顔を食い入るように見ているのが嫌だった私は、だんだん食事も別になってくると静かな時間が増えて、二階のベッドの上でまったりとした時間を過ごしています。でも三階の音はいろいろ聞こえて来て、二世帯住宅とはいえ、ここで子供たちが育って行くのは互いに大変だったことが多いし、余計な感情も持たなければならなかったのです。今私は義母のべットに寝て、素晴らしい床柱や天井板や壁や障子を見て凄いなあ、高級旅館並みだなあと感心していて、そして今朝気が付いたのは、ここには神棚があるということです。私は神様に見守られながら寝ていた…何ということかと思います。そういえばこのところ見る夢の内容が妙にリアルなのです。恋をしている夢、研究室で勉強している夢、知り合いの葬儀に出席している夢。

 何が幸せで何が不幸かわからない世界、でも愛のない世界を破壊して、愛のある場所を創造していこうとしているゲストがいました。愛のない空間、愛のない組織、愛のない関係性は容赦なく滅ぼされてしまうけれど、たとえ周りの世界がどうであれ、自分自身が愛を能動的に創造していけばいい、誰かに愛を与えること、自分自身に愛を与えることを彼女は目指している気がします。

 

 混乱に満ちた世界から抜け出すには、これまで誰も語ったことのない言葉で、自分が心から信じられる物語を作っていくことしかない、人々の行き場のない怒りとか苦悩とかそういうものを何か表現で肩代わり出来て、自分の幸せではないかもしれないものが巡り巡って自分の幸せになるという感覚、自分ではない誰かの感情をすくい上げ取り込んでいくことが一番の救いになっていく、そんなことを私は彼女を見ていて思ったのです。コロナ以後、こころの方向を見つけようとしている海外の若いゲストたちは、どう進んで行けばいいのか、大学で勉強してもそれが本当に自分の本意なのかと考えながら、私のところへ来ていました。自分が日本に来た意味をはっきりさせることはできたのか、そんなに突き詰めて考えることではないかもしれないけれど、文学とか美術とかスポーツとかあらゆるジャンルを超えた、今切実に求められている個人個人のエートスは、自分のやり方で考え抜いて、そして進んで行くことでしか得られないと思うのです。

  人間の人生は、沢山の選択の連続です。自分のやりたい事とやらなければならない事の選択に悩むとき、そんな時役に立つのが、傍から見ると何をやって来たかと思われるような日々の積み重ねで、無意味だったり無駄だと思われるような過去の努力が意味を持つことがあります。選択の是非は、失敗してもまた失敗しに行くという究極の腹のくくり方をしていかないとわからない、わからなくてもいい。今を選ぶ難しさ、でもその時々の意味だけは考え続けなければならないし、それが一番の救いになるのでしょう。しばしば人生では逆境であればあるほど得るものが多く、思い通りになっているときほど落とし穴があるという人生訓は、シェークスピア文学などにあらわされているけれど、私達高齢者がこういう教養とか哲学、倫理に対してあまりに無知のまま年を重ね、成熟しないで落果しようとしているつけが、世界中の害毒を作り出している気がするのです。

 そんな危険な時代にいる私達が希望を持ち、光を求めて前に進むには、何より文化や教養や知識や美意識や哲学を身にまとわなければなりません。教養という財産をもち、精神を浄化するために必要な文学や芸術、音楽、美術、宗教観を味わう力を持ち、逆境を耐え忍ぶ胆力を持っていないと、いつか自分の爪に仕込まれた毒で自分の皮膚を刺してしまう日が来ます。シェークスピアはマクベスにこう語らせています。「悪いことをすると自分にはね返ってくる。そして眠れなくなる。」「ひとたび悪事に手を付けたら、最後の仕上げも悪の手に委ねることだ。悪の退治をするためには、人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶことを知らなければならない。」

 マクベスのような激しい文学を読み追体験することで、不安や怒りなどの心の汚れや罪の意識などを取り除いて精神を正しい状態に戻す、カタルシス、精神の浄化、違う自分になる、風のようにもう一つの人生を生きて見ることにしよう。こういう体験を精神的に繰り返していると、人間の幅が広がり、物に動じなくなり、何かを思うようになる。それによって自分の力で自分の精神を浄化し、自分の内側にこそ世界を変えるパワーがあることに気づき、どんなに頑張っても報われないことからも学び、もがき苦しむ生き様もさらけ出し、今度は風のように、違う人生を歩もうとしていることを、1600年代にシェークスピアは示していたのです。

 

 どんなシチュエーションであっても、その人が人間として持っているものを社会の中で活かせるようにするには、今までどう学んできたか、どう生きてきたかがとても大切なのだと思っています。自分というものを見出して磨くことができればブレずに歩け、人生は豊かにできる、自分自身をよく理解し「自分の中心軸」「心の芯」「生き方の美学」自分にとって大切なものが何かを知っていると、決断する時の道標になります。人生はいつかは終わる、いつかは終わるのだったら、今できることの最善を全部尽くしていこう、一人一人の個人的資質の誠実さを大事にすること。 

 私たちはみんな何かを背負って生きています。でもそれを背負うのでなく、受け入れればいい。自分が表現したりイメージをちゃんと伝えられる技術とボキャブラリーを増やさないといけない、人の気持ちの余白、思いの余白、見る人の気持ちの動きに委ねるところまでを含めて自分の表現を考えて、見る人の想像力を大きく膨らませられる何かを発信していきたい、大渦巻きに飲まれそうになった時見上げた空に、煌々と光る美しい月の存在があれば、それによって力を得られることを私達は忘れてはいけないのです。

 

  「自分がわかったということがすべてだ、それが悟りだとわかった」仏陀の本を読んでいた時、出てきた衝撃的な言葉でした。個人個人の思惟、苦闘、開眼、結局人一人の思いの深さしかないのだとしたら、私は4時間ゲストと一緒にいてこの寺町を歩くことが仏教そのものだということを感じてほしいのだと思っています。