瞬間移動    2023年12月

 二日間京都に行ってきました。ジパング倶楽部や株主優待の宿泊券を使って、割引や特典がいろいろ付き、得している感も強いけれど、フィリピン旅行がかなりゴージャスだったので、京都という土地柄もあり閉塞感を感じながら、ホテルのベッドで天井を見上げ妙な気持ちになっていました。

今回の旅行を決めたのは、最近来るゲストが京都へ旅行に行った次の日に私の体験に来るケースが増えて来て、カップルで着物を着て撮った写真を見せてもらうと、私はどう太刀打ちしていいのか全く分からなくなってしまうからで、京都の着物事情や着ている人々の雰囲気、お寺や仏像、仏教に対してどんなスタンスでいるのかを知りたかったからです。どこへ行っても外国人は多いから、英語で話す機会も多いだろうと期待して、京都に着いてから東寺に出掛けました。とても天気が良く、修学旅行生が多いのに驚きながら短い距離だけれどタクシーに乗り、若い運転手さんにおすすめのお寺を聞くと「六波羅蜜寺が良い」と言ってくれたのを心に留めました。広い境内の東寺、五重の塔、紅葉は終わって枝だけになった枝垂れ桜や柳を見上げ、思ったより人が少なく、外国人は皆無なのにちょっとがっかりしてしまいました。あまり何事も期待しすぎるといけないと思いながら、静かに大きな講堂の扉を押して中に入ると、沢山の仏さま達が光背を背に、横向きに並んでいるのが見えます。この前来た時はどこかの仏像展に出張中の方もいらして、すべてそろった立体曼荼羅を見るのは初めてです。大きい、みんな大きい、大きい講堂に大きい仏像がたくさん並んでいるなんて、何と凄い光景でしょう。

 京都に行く前に、これまで仏教について書いてきたブログを読みかえしてみて、聖徳太子についての4年前の文章に、それまであった神道という自然信仰、アルカイムズという単純性だけでは日本人の持っている洗練さ、複雑さ、深さが十分に表現できない、ゆえに聖徳太子は日本人のために共同宗教の神道を基礎に、人間の個人の領域の思想、仏教を取り入れることを選択したとあるのです。人が悟りというものによって、他人にはわからぬ個人の苦しみを癒す方法を得られるよう道を開き、そこから表現が深い芸術の段階に達するようになった、でも仏像曼荼羅の中央に位置している大日如来様は、自然信仰の象徴のような存在であるとも書いてあり、そこまでいって御前に佇んだ時、私は素朴な深い慈愛に包まれその大きさに圧倒されました。

 悩んで辛くてめげて、でも前を向かなくてはいけないと言う葛藤を、仏教は救うことができるか、私はまさに義母との軋轢と苦しみから逃れるために仏教会に入り法華経を唱えて道場に通いました。でもそれで救われたわけではなかった。生きていくのが辛くてたまらない、私は孤独だと大粒の涙を流したゲストがいました。彼女の部屋には、オークションで買ったという大きめの原始仏教のような仏様が置いてあり、その写メを見せてもらった時、私は「ああ大丈夫だ」と感じたのです。自分を救うのは自分でしかない。その自分を強くする手立てが、仏像なのかもしれません。講堂を出て金堂に入った時、そこにいらした阿弥陀如来様を見て、私は衝撃を受けました。こんなにも大きい御姿を作れる人がいるのだ。芸術は救いになる。他人にはわからない個人の領域の思想、それが聖徳太子の考えた仏教なのか、表現が深い芸術の段階、それは仏像なのでしょうか。

 苦しんで砂嵐の渦に巻き込まれて、這いつくばって耐えて抜け出さないといけない、そんなつらい目にあいたくないのだけれど、そうやってやっと抜け出した時に、そこに大きな仏様の優しい顔があったらどんなに救われることでしょう。接骨院をしていた時沢山の若い方が働いていて、世話をしていたのだけれど、気性の難しい男性がいて、独立してからも盆暮れに欠かさずお酒を持って挨拶しに来てくれていました。でもしばらく休業していると風の便りに聞いて、そして最近自死してしまったのです。彼はこの世に生を受けてから、ずっと生きづらかった。生きるのが難しかった、生きられなかった。星野源さんが、小さい頃から自分の話すことや意識が他の人と違っていて、いつも孤独だったと言っていたけれど、それを自分のスキルである音楽に落とし込んで昇華させ、沢山のファンを惹きつけて活動しています。何とか砂嵐の中をくぐり抜ける胆力を持たなければなりません。それはすべての人間が今持たなければならないものなのかもしれません。世界は砂嵐の入り口に入ろうとしている。

 夕方のニュースで、災害救助隊の方の訓練の様子が報道されていて、何があってもどんなに大変でも、救助することを諦めません。そのために体を鍛えて頑張っている、自分が頑張れば人が救えるという言葉を聞いていて、結局人は人のためにしか生きられない、そして仏様はいつも見守っている、あんなに大きくあんなに深く存在しているのです。東寺の仏像の中に男女の人間を踏みつけにしているものが在り、踏まれている人は幸せそうな顔をしているのだそうです。何でなのでしょう。常不軽菩薩のようにどんなに乱暴されても迫害されてもそれすら自分の糧になると思うのでしょうか。人間が苦しい時救われる道は人のためにつくすこと、人を救える何かを産み出すこと、それは仏像もそうなのでしょう。

 次の日の朝8時に六波羅蜜寺へ行き、空也上人の像を初めて見ました。痩せこけていて悲しい虚ろな目をして、それでも口から南無阿弥陀仏の像が出ている。六波羅蜜、人がこの彼岸に至れるよう6つの徳目を理解し、日常生活の中で実践することが大切である。

見返りを求めず、応分の施しをすること。自らを強く戒めること。いかなる辱めを受けようとも耐え忍ぶこと。普段の努力を続けること。冷静に自分自身を見つめること。仏様から戴いた生きるための能力。

これが6つの徳でした。

京都へ来て良かった。東寺と六波羅蜜寺を訪れることができた。大きな強い磁力を感じています。進める。また柴又で歩むことが出来ます。小さな東京のはずれの小さなお寺の帝釈天だけれど、いつでも京都の大きな仏様のもとへ瞬間移動して、仏教彫刻の細かいあれこれを見返すことが出来るし、言いたい事を膨らますことが出来ます。

 

 人間の深い部分、不可解な自己を見出し、それをいかに意識できるか、日本人の精神がより強く、深く表現されている興福寺の阿修羅像、東大寺の仏像彫刻などは、人間の意識などと言う生半可な像ではもはやなくなっています。聖徳太子の時代だろうが、現代だろうが、私たちは何のために生れてきたのか、何のために生きていくのか、その解答を求めてもがいている気がします。生老病死、苦しみ、戦い、良いことも悪いこともたくさんある中で、何で生きているのか、たとえ死に直面しても残る「本当に大事なこと」は、「私はこのために生れてきた」と言えるものが在ることです。なさねばならない目的、生きる目的が鮮明であること。仏教とは自分を作る教えであり、自分を作りつつ他人を救っていく教えであるから、自分自身で心に灯をともして、自分自身を照らしていくことが大切なのです。

 

若い頃、イスラエルの哲学者マルティンブーバーにとても心を惹かれ、その本を熱心に読んだことがあります。

「聴く力とは単に言葉を聞きとることだけでなく、感覚を研ぎ澄まし、心を開き相手の立場を察して理解すること」 これが、私が目指している体験です。自分の生き様もさらけ出しながらゲストと触れ合う。マルティンブーバーの「我と汝」という関係は、私が、私が何かをするというのではなく、あなたと言う対象物がいて、それに関わる自分がいるだけ。私は透明になって相手の中に入り込むためにあらゆる努力をします。それは言語だけでなく、表情なり気配なり呼吸までも感じつくしたいからです。自分が存在し何かを表現したいならば、そのためにはより強い磁場を持つ相手を自分の中に投影したい。それは逃げでもなく模倣でもなく、自分から遠ざかることによって相手が自分の中に入って来る。

 私の体験は、そこに着物や仏教や茶道がかかわります。私のちっぽけな思惟など吹き飛ばすようなインパクトのある日本の文化の前に、ゲスト達は時として言葉を失うのです。京都で得た仏さま達が自分の後ろにいらして守って下さる感覚、うしろ向きに走って行って、そのまま倒れ込める感覚、平知盛が最後にうしろ向きに海に飛び込める胆力、違うものなのでしょうが、なぜかしっくり感じられるこれらを、しっかり考えていきたいと思っています。